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木3・文章資料講読Ⅰ(日本語Ⅱ) 前期課題レポート
書きあがったよ。


自己満足だけど、アップするよ。

興味ある人は(きっとほとんどいないだろうけど)
見てね。



*物語を読んであることを前提に書いてあるので、
 ちょっと理解しづらいところもあるかもしれません。

 それから、
 締め切りギリギリで何とかまとめたものなので、
 いろいろ不備があるかと思われます。(言い訳)

 アドバイス・コメント・叱咤激励なんぞを
 いただければ幸いです。

 (でもあんまりヒドく言われると本気で凹んじゃうので、
 酷評はほどほどにしてください)




☆この短編には二人の女の児が登場するが、なぜ「二人」である必要があったのか?


1.二人の女の児、それぞれの特徴
 
 なぜ女の児が二人必要だったのかを考える前に、まず本文からそれぞれの女の児の特徴を挙げる。


○按摩の女の児=実際に盗んだ児

  ・甘ったれるような声
  ・小声でグヅグヅ
  ・五つばかりの色の黒い可愛い児
  ・「着ぶくれで、…格好」 →幼さの強調
  ・鼻声
  ・野趣を持った愛らしさ
  ・田舎の子供らしいいやな臭い


○芝居小屋で見た女の児=本当に盗みたかった児

  ・六つばかりの美しい児
  ・色の白い
  ・目つきと口元に大変愛らしい所のある児
  ・平気で大きな声をして笑った
  ・可愛いばかりでなく非常に美しい児
  ・聯想(レンソウ)があった
  ・子供の頃好きだった人の子供時代によく似ていた
  ・「…女中とで来ていた」
  ・その女の児を自分のものにしたいという欲望


以上をまとめると、

 〈按摩の児〉    =「可愛い」「静」「幼い」「黒」                 「田舎っぽい」
           →実際に盗んだ児

 〈芝居小屋で見た児〉=「美しい」「動」「聯想」「白」                 「裕福」
           →本当に盗みたかった児

以上のように、
非常にきれいな〈対比関係〉が認められる。



2.対比の意味

 1.で見たように、二人の女の児は非常に対照的であることがわかった。それではこの〈対比関係〉が、物語においてどのような意味を持っているのだろうか。


2.1.主人公の行動と心情変化

 それぞれの女の児との出会いが、主人公(「私」)の心情にどう影響したのだろうか。以下にまとめる。

 *数字は形式段落番号。なお、丸数字は説明のために筆者(青井)が付した場面段落番号である。


①01~21:「私」が東京を離れて尾道で一人暮らしを始める場面。東京とは違う生活に、はじめは満足していたが、次第に飽きはじめる。しまいには疲労・不機嫌が「私」にのしかかる。「私」は気持ちをリフレッシュさせるため小旅行に出掛けるが、結局、疲労・不機嫌は解消されえなかった。

②22~35:「私」が肩の凝りを解消させるために按摩を訪れる場面。ここで「私」は初めて按摩の女の児と出会う。しかし、その出会いは「私」に何の心情の変化も及ぼしてはいない。「私」は按摩とその女の児のやりとりを、ただつぶさに観察しているだけである。
32段落以降、「私」は再び仕事に取り掛かろうとするが、やはり続けることができない。虚無感・無力感はますます高まっていく。

③36~41:単調な毎日を過ごしていた「私」は芝居小屋に足を運ぶようになる。そこで見た落語は「私」を愉快な気持ちにさせた。
或る日「私」は芝居小屋である女の児に出会う。「私」は落語をそっちのけで、始終女の児の観察をする。その後も女の児に対する興味は消えず、「私」は妄想を膨らませる。「私」はそれまでの疲労や不機嫌を忘れ、「純粋なそしていい感じ」を抱くようになる。最終的には、はっきりと「その女の児を自分のものにしたいと云う慾望」を自覚する。

④42~44:「私」の空想は具体的に女の児を盗む行為にまで及ぶが、芝居小屋でその女の児を見かけなくなってからは「子供を盗むという空想も日を経るに従って萎みかけた。」しかし「私」は、あれほど膨らんでいた欲望が急に抑えられてしまったことに腹立ち、自分の中でその欲望を正当化し、維持しようとする。

⑤45~47:市で誓文払いが催される場面。その2日目に「私」は再び按摩のもとを訪れる。「私」は療治の間、今度は按摩の女の児を盗む想像をしはじめる。
空想は具体的な部分にまで及び、「私」は快い緊張を感じるようになる。「私」は按摩の児を盗むための玩具や菓子を買い揃えるが、実際に盗むという決心は未だつかずにいた。

 そして、48段落で、ついに「私」は按摩の女の児を誘拐する。


 ①~⑤までの流れの中で、注目すべき点は2点あるだろう。
 まず、②での按摩の女の児との出会いは「私」になんら心情の変化を及ぼしてはいない、という点。「私」は按摩とその児のやりとりを観察するが、それによって特別な感情を抱いたりはしていない。もちろん、その児を盗むなどという空想はしていない。ところが、③での芝居小屋で見た女の児との出会いは「私」の心情に大きな変化をもたらしている。今まで負の感情を感じていた「私」は、その児との出会いによって一転、正の感情を抱く。
 そして、いったん萎みかけた「児を盗むという慾望」が、按摩の女の児との再会で再燃した、という点も強調したい。「私」は萎みかけた慾望を、自己正当化することで必死に維持しようとする。そんな折、「私」は按摩の女の児にまた出会うのである。はじめは芝居小屋で見た女の児に向けられていた慾望の対象が、按摩の女の児に向けられる。「私」はその慾望が再び萎んでしまわないうちに、より具体的な空想へと広げ、実際に児を盗む準備を始める。(ただしこの時点では、「児を盗む」という決心を、はっきりとしたわけではない。)


2.2.物語の結末

 この作品は、「私」が女児誘拐の容疑で警察に曳かれていく場面で幕を閉じる。そして、その結末――誘拐が失敗に終わるという結末――は当然の結末であったと言わざるをえない。なぜなら、実際に盗んだ女の児は、はじめに盗みたいと思った女の児とは対照的な児だったからである。つまり、それは慾望を満たすために犯した犯罪ではなかった。按摩の女の児は、いわば自己の慾望を正当化するために盗まれたのである。
「私」は犯行後、按摩の女の児と共に生活を始めるようになって、ようやくそのことに気づく。ついには「元々この女の児をそれほど愛しては居なかった事」を認める。自分が望んでいた児とは対照的な児を、真に愛せるはずがないのである。


2.3.まとめ

 「私」の心情変化とそれぞれの女の児との出会いを見ていくと、女の児に対する感情(あるいは慾望)が常に一人の子に向けられたものではないことが分かる。「児を盗む」という慾望は、はじめは芝居小屋で見た女の児に向けられていたものだったが、あるとき按摩の女の児へと慾望の対象がシフトする。「児を盗む」というこの物語の題材ともなっている「私」の慾望は、芝居小屋で見た女の児によって芽生え、按摩の女の児によって維持されたのである。
 しかし、その維持された慾望は按摩の女の児を盗んだことによってでは満たされえなかった。その児は本当に盗みたかった児(=芝居小屋で見た女の児)とは対極にある児であったからである。
 「私」は犯行前に按摩の女の児に出会ったとき、「芝居小屋で見た児とは比較にならなかったが」とはっきり言っている。それでも「私」がその児を盗んでしまったのは、それが慾望を満たすための犯罪ではなく、自己の慾望を正当化するための犯罪だったからなのである。そのことをより一層際立たせるために、対照的な二人の女の児が物語に必要であったのではないかと考えられる。



∮∮∮



あー、満足満足♪


これからコンビニに行って、
昨日からマイブームになった
100%グレープフルーツジュース(もしくはゼリー)を
買いに行きます。
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【2006/07/13 05:24 】 | らくがき | コメント(0) | トラックバック(0) |
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